ICTを用いた国語科教育
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H29年度の問題意識

「思考の可視化」についての疑問

「思考の可視化」などできない

近年、ようやくICTを活用した国語科の研究や実践が数多くみられるようになりました。しかし、先日読ませていただいた論文では、先行研究としてあたっておられるものが2000年以降に限られていて、「あれ?」と思いました。

確かに2000年以前に国語教育においてICTの活用を研究している人はほとんどいなかったと思いますが、現在研究されていることのほとんどは、内外の2000年以前の研究者や実践者が提案した範疇にあるように思います。また、最近流行っている「思考の可視化」には少し疑問があります。

似たような言葉に「思考の視覚化」という概念があります。「思考の可視化」と「思考の視覚化」は、似ていますが異なる概念です。

副題にも書きましたが、「思考の可視化」は、原理的にできないのではと思います。なぜなら、

@「思考」とは何かということが解明されていない。
したがって、分からないもの(=思考)を「可視化」することはできません。それはまるで、住所を知らない人に手紙を出そうとしているようなものです。

A「思考」は脳内の処理系です。「思考」は一時も止まっておらず、複雑多岐にわたる処理を、現に行っています。別の言い方をすると、「常に変化している精神活動」です。ですから、現在行われているような、二次元のマップ(ウェビング)によっては、「次元」が異なる「思考」という「活動」を「可視化」できるはずがありません。思考には時間軸がありますが、現行のマップは紙に定着した図柄です。百歩譲って、写真やスケッチのように何らかの活動が「可視化」できているとしても、思考全体の何万分の1の断片であるとみなすべきです。そしてその場合は、何の断片かを明らかにするとともに、なぜその断片を必要とするのかという目的を明確にしなくてはいけないはずです。

安易に「思考の可視化」などと誇大な表現を用いることの危険性については、改めて別稿を起こそうと思いますが、過去の拙論を読んでいただければ、言わんとするところが理解してもらえるのではないでしょうか。

繰り返しますが、「思考の可視化」は、その言葉通りには不可能です。誇大な言説であり、科学性に欠けます。

思考は、視覚情報ではなく、高度に複雑な非視覚系処理の総称です。視覚情報でないものを「可視化」することはできません。それは、オーケストラの演奏(聴覚情報)を「可視化」することができないのと同じです。「可視化」とは、ある視覚情報があって、それが何らかの事情で覆われて(カバーがかかって)いるとき、その覆いを取って見えるようにするという意味ではないでしょうか。したがって、「思考の可視化」という言葉を解説すると、

「思考」は本来視覚情報であるが、それが何らかの事情で覆われているので、その覆いを取って見えるようにする。ということになります。つまり「思考の可視化」という概念は、日本語としての意味をなしていないということです。

対して、「視覚化」とは、本来視覚情報でないものを視覚情報に変換するという意味ですので、日本語としての意味をなしていますし、科学的だと思います。

「思考の可視化」問題に大変危機感を覚えたので提言させていただきました。

H27年度の問題意識

ICTを用いる学習のトレンドは、一昔前までは「デジタルカメラ」と「インターネット」でした。今は「書画カメラ」と「タブレット」になっているようです。先日、ある県の情報教育担当指導主事の方が、「書画カメラで拡大して見せるだけでICT教育になる。」と説明され、さもありなんと思いました。

それぞれの時代の「トレンド」を全否定するのは軽率だと思いますし、先の指導主事の方の説明も、それはそれで納得できました。しかしそれらの「トレンド」は、コンピュータを用いた学習が本来目指すべきところから大きく外れていて、本質の周りを徘徊しているような実践である、とも言えるのではないかと思います。

「アラン・ケイ」の提案から数十年が経ち、彼が描いた未来像は、ラップトップコンピュータやタブレットを使った学習として具現されつつあります。一方で、彼が憂慮したこと、機器を使うことが目的化してしまうことやバーチャルに終始してしまうことなども現代の問題として起こってしまっているようです。

また、私が、コンピュータを用いた学習を研究してから20年が経とうとしています。その中で、私が描いた「マルチメディア教科書」は、うれしいことに「デジタル教科書」となって誕生しました。私はアラン・ケイのように、情報技術の未来像を描くことなどはとうていできません。しかし、今の技術で実現可能なものとして、在宅学習者にも対応するネットワーク型の「マルチメディア教科書」と「教師による生徒支援・教師への教授支援」などを一体化した「ネットワーク学習環境」が、学習・教授に関わる全ての人にとって有効であると提案してきました。

様々なことがひとつひとつ実現されつつある中で、日本の教育分野ではいまだ十分に使える「コンテンツ」がありません。コンピュータは、どのようなメディアにもなり得るメタメディアであり、見えないものを見えるようにするバーチャルリアリティや先を予測するシミュレーションなどとしてその能力を具現化しています。そのようなコンピュータの力を、「思考」や「読解」や「表現」、「記憶」などという本来的に「見えない」ものを対象としている「学習・教授」に生かすことで、教育にコペルニクス的転回を与える可能性があるのではないでしょうか。そのための授業改善と「コンテンツ」の要求が、教師の側から始まり、開発者を牽引できると素晴らしいと思います。

コンピュータの持つ潜在能力が「思考支援」「表現支援」「コミュニケーション支援」「評価支援」などの「教育・学習支援」に発揮されれば、今私たちが行っている「授業」や「学習」は根底から覆されるかもしれません。しかし、その先には画期的な成果があるのではないかと、楽観的な期待をしつつ実践・研究を重ねていきたいと思います。

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