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「中学生の読書離れ」は問題か?

最初に問題を整理しよう。まず、「読書離れ」とは何かということをはっきりさせなくてはいけない。なぜなら、「読書離れ」とは比喩的な表現だからである。一般に、「〜離れ」と言うとき、離れていくのは心である。だから、「読書離れ」とは読書から心が離れること、つまり、読書に興味がなくなったということである。

したがって、「中学生の読書離れ」は問題か?という問いは、次のように言い換えられる。  

「中学生が読書に興味を示さなくなったこと」は問題か?

私は、問題ではないと思う。より正確に言うと、「中学生が読書に興味を示さなくなった」という事態を問題にしたところで、一向に問題の解決は図れないと思う。解決すべき真の問題は別のところにあるからだ。それについて以下に述べよう。

一般的に、読書は人を成長させる。心を豊かにし、知識を増やし、言語能力を高め、自立心を養う。したがって、できるだけ若者には読書をしてほしいと思うし、もしも若者が読書から離れていくのであれば、何とか読書に留めたいと考える。しかし、それでも、ここで立ち止まって考えてほしい。何かに興味を示さなくなるということは「問題」か? たとえば、私に興味を示さなくなった彼(彼女)の態度は「問題」か? 野球に興味を示さなくなった中学生の態度は「問題」か? 多くの場合、どちらも「問題」とは言えない。きっと、個人の勝手である。では、こんな場合はどうだろう。結婚を約束していた彼(彼女)が、玉の輿に乗ることになり、「あなたには興味がなくなった」と言って去っていった。または、明日は甲子園出場をかけた決勝戦だというときに、エースピッチャーが突然「野球に興味がなくなった」と言って退部した。―――どちらもかなり「問題」だろう。

このような例から言えることは、興味を持つか持たないかは、基本的には個人の勝手であり、「問題」はないのだが、状況によってはそれが問題になる場合もあるということである。つまり、「問題」は「状況」との関係において生じる。「状況」から離れて「問題」は生じないという原理があるのだ。

読書だけは別だと言う人がいるかもしれない。「お前もさっき、読書には価値があると言ったじゃないか。」と言う人もいるだろう。確かに私はそのように述べた。それは私がそういう価値体系の中にいるからにすぎない。もう少し詳しく述べよう。

たとえばキリスト教徒は、唯一絶対の神(GOD)を信じ、またバイブルを絶対視する。彼らには神とバイブルを規準とする善(価値あるもの)と悪(価値のないもの)の仕組みがある。このような価値の仕組みのことを価値体系という。キリスト教徒に限らず、すべての私たちは、何らかの価値体系の中に生きている。

キリスト教徒にとって、「神の教えに従わないこと」は悪であり「問題」である。なぜならそういう価値体系の中に生きているからである。しかし、仏教徒にとっては神を信じないことは何ら「問題」ではない。なぜなら、キリスト教徒とは違う価値体系の中に生きているからである。

要するに、善悪はその価値体系の中でのみ有効なのである。ある価値体系の中で善であることが違う価値体系の中では善でなくなったり悪になったりするのだ。このようなことを善悪の相対性とか善悪は相対的なものだなどという。逆に、価値体系に関わりなく善は善、悪は悪だというものがあるとすれば、それを絶対的な善、絶対的な悪などという。しかし、私たちを包む価値体系から離れて絶対的に善であるとか悪であるとかいうものは存在しない。あると主張する人がいれば、それはまやかしである。当然、「読書」も絶対的な善ではありえないのである。だから、それに興味を持つか持たないかということ自体は、まさに個人の勝手なのである。

善悪は価値体系によって決まる。読書に興味を示さなくなったことが問題であるとする立場は、「読書」という行為を絶対的な善としてとらえており、そう考える自分たちの背景にある価値体系に気づいていない。まさに、そういうとらえ方にこそ「問題」がある。そういう価値体系に無自覚であるから、方法と目的の区別ができないでいる。

読書を善とする立場では、人を成長させる手段としての読書の効果を認める。だから読書をしない態度は悪として評価され、問題だととらえられる。そういう価値体系の中にいる人にとっては、実に納得できる話である。しかし、重要なのは、読書を善とする価値体系の底の方に、人が成長のために努力することを善とする前提があるということである。また、読書によってもたらされる「成長」や「豊かさ」や「自立」や「知識や言語能力の獲得」を善とする前提があるということである。それらは前提であるとともに読書をすることの目的でもある。そういう目的のために読書という方法を善なるものとして勧めることができるのだ。価値をおくべきは読書ではなく、読書をする目的である。その証拠に、大量破壊兵器を製造して他の民族を滅ぼそうとするための読書を勧めるか。

読書は単なる方法である。だから、もし、読書以上に「成長」や「豊かさ」や「自立」や「知識や言語能力の獲得」が可能な方法があるのならば、そちらの方を勧めるべきなのだ。そして、「方法」は常に利点と欠点を持ち、常に変化する。

本がなかった時代は本に頼らず、成長や豊かさや自立や知識や言語能力を獲得していた。本が出版されるようになってからも、読書に頼ることを受け身の学習であるとして戒める人もいた。また、「方法」としての読書の利点と限界を端的に示したものとして、ショーペンハウエルの次の言葉は傾聴に値する。

「紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。」

要するに、問題は、中学生が読書をしているかどうかという「行為」や「方法」にあるのではなく、人間的に成長しているかどうか、とか、心が豊かになっているかどうか、という「状態」にある。どんな方法を採用するかは本質的な問題ではないのである。本質的なことは、「人間的成長」とか「豊かな心」という価値に共感するかどうかという価値体系のあり方にある。中学生の読書習慣が変化したとするならば、まず、その価値体系の変化に注目すべきなのだ。これを自覚しなければ、価値体系を共有し共感しているに違いないという勝手な思いこみの上に、単なる方法にすぎない読書を、金科玉条のごとく勧めることとなる。それは全くの独善である。

どのような方法をとるのかは個人の自由である。しかし、どのような価値を共有するかは社会の合意である。問題を解決しようとするならば、中学生の価値体系と、「読書」を信じる人たちの価値体系とがずれてきているという「ずれ」に「問題」を見つける必要がある。そうしなければ「中学生の読書離れ」の本質を見抜くことができないし、問題を解決することもできない。そればかりか、両者の価値体系の差異のみを際立たせ、いたずらに混乱や反発を招くだけである。

平成18年度版「新しい国語2」(東京書籍)  書く2「意見を書こう」  自作教材として

(島根県雲南市立大東中学校  教諭  天理大学文学部国文学国語学科  非常勤講師)  (執筆当時)
(現)島根県雲南市立大東中学校  校長  久村真司

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